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唄は労働と共に、そして祈りや恋愛と共に。
圧倒的な自然の中、ここに唄の原初を見る。
久保田麻琴
ミュージシャン・プロデューサー
田植えなどの肉体労働のリズムに合わせた集団の歌は、パッと聞いてアフリカのものかと思うような響きですが、これまでぼくは知らなかったナガランドはインド北東部、山間部の僻地。楽器も何も要らない皆の呼応する歌声が日常の潤滑油になっています。屈託ない人々の素朴な生活を追った素敵な映画です。
ピーター・バラカン
ブロードキャスター
こんな素敵な歌声の場所が、残っていたのは奇跡ですね。ナガランドから歌うことの力の原点が聴こえてきます。稲作の労働歌は、アイヌのウポポを思い起こさせるまさに円環のポリフォニーです。
巻上公一
音楽家
歌は人間が生まれるずっと前から世界に漂っていて僕たち人間が歌をつくっているわけじゃないのかもしれない。観終わったあと外を歩くと世界がまだ聞こえてきていない歌で充満しているように感じた。言葉を使うよりも耳をすまそう。歌は世界のほうにある。
坂口恭平
(建築家/作家/ミュージシャン)
今の時代に、民族や宗教の深刻な対立や紛争が増えていく中、こういう映画が必要です。残酷な歴史を持つナガランド州の村では、歌と恊働が人々の絆を支えて、コミュニティの力になっています。そのダイナミズムを見事にとらえたこの映画は、インドの少数民族への理解と尊重を示し、我々にも希望を感じさせます。笑い声で始まり、笑い声で終わる映画はめったにない。この作品に出会えたことを幸運に思っています。
ジャン・ユンカーマン
ドキュメンタリー映画監督
愛しい人を思う村人たちの、柔和な表情が印象的でした。彼ら、彼女らの声と声が合わさり、深い豊かな響きとなって、輝く棚田にこだまする。そのハーモニーを聞きながら、妙(たえ)なる、という形容詞がふっと浮かびました。歌はどこから生まれるのか、人はなぜステップを踏むのか。少し、わかったような気がしました。
七里圭
映画監督
自らが今、此処に生きていることを声にして表すと、それを受けて私も此処にいるよ、と誰かが応え、互いに響き合い、そのハーモニーが共に生きるための営みを心地よく駆り立てていく…『あまねき旋律』は、素朴な日常の中で人間の本能と音楽と生産的営みとが、完璧なバランスで循環する様子を奇跡的に映し出している。
山川冬樹
ホーメイ歌手/現代美術家
不思議な透明感を持って響きわたる歌声。人は楽しく生きるために歌う。これは私たち、アジアのワークソングだ。アメリカではやがてブルーズやジャズがここから産まれたように、ワークソングはすべての音楽の原点だと思う。
湯川れい子
音楽評論家/作詞家
最初に、こんな美しいポリフォニーが今まで全く知られずにアジアに存在していたことに驚いた。次に二人の監督の耳の良さにも驚いた。歌声だけでなく、畑を耕す鋤の音、雨や雷の音、トラックの騒音まで、全てが音楽的で耳に心地良い。完璧なサウンド・デザイン! それにしても、こんな浮き世離れしたポリフォニーを、どんな人間がどんな心境で歌っているのだろうか? いや実は、ふられた彼女や彼氏を思い出したりと、案外世俗的だった。それでこそ地上の労働歌。なんとなく腑に落ちた。
サラーム海上
音楽評論家/中東料理研究家
インドの山村の棚田でうたわれる労働歌が、とんでもなく心地良い。アメリカ黒人音楽のルーツにもつながりそうな魅力がここにある。働くことと歌うことが、これほど美しく魅力的に響き合う場所があることを知った。まさに至福の83分!
金原瑞人
法政大学教授・翻訳家
豪快に水田を耕す音をウォータードラムのように響かせながら繰り広げられる、男たちのポリフォニー。一心不乱に田植えをする女性たちの口から断続的に聞こえる、声による美しいアンサンブル。インドの伝統音楽には基本的にハーモニーの概念がない、という常識が完全にくつがえされる。僕はまだ、インド音楽について全然知らなかった。
ユザーン
タブラ奏者
山岳地帯にあるナガランド、人々は山の棚田で作る米で生きている。命の糧を作るその作業は途方もなく果てしない労働だ。その過酷な労働が、「歌うこと」によって楽しみや喜びに変貌する。日々の生活の中でうたわれることで、「歌うこと」自体が人々の力をどんどん信じられないぐらいまで引き出して来る。その瞬間、瞬間が豊かな歌声や映像を通じて、私たちの深いところにまで働きかけてくる。もっと出せる力があるんだ、と。人間の根源的な生きる力というものが瑞々しく溢れる映画だ。
鎌仲ひとみ
映像作家
現在の世界には、労働の反対語は余暇ではなく戦争となっている地 域がある。モダニズムと植民地主義の歴史的な力学に翻弄され続ける紛争地において、どれほどの若者が兵士となって戦場で人を殺すことを生きる希望としているのだろうか。彼・ 彼女らが奏でる美しい旋律もまた、潜在化する部族主義による内戦が始まれば、その旋律は変容され、労働と共になくなってしまうのだろうか。
藤井光
美術家・映像作家
笑顔をもってオススメします!
歌を、恋人を、兄弟姉妹、隣人を、
そして映画を、改めて好きになる映画です!
中村義洋
映画監督
彼らの労する身体が動けば歌が生まれ、歌が響けばまた身体が動く。その音色は、吹き抜けていく風、大空から降り注ぐ雨、畔で合唱するカエルの鳴き声、鳥たちの恋のさえずりとまるで変わらない。太古の昔からつづく生きものたちの響き。キリスト教改宗、インドとの長年の独立紛争が続く中で、今また彼らは歌う。声を重ねてこそ、幸せになれると。澄みきった音を全身に浴び、満ち足りて映画館を出たとき、ふと涙がこぼれた。私の歌はどこへいってしまったのだろう。
纐纈あや
映画監督
『あまねき旋律』から聞こえてくるのは、この世のものと思えない尊い調べだった。素朴な暮らしを営んでいるかに見える村人が、友達がいるからきつい仕事もできるんだと語らいながら、いつしか一切皆空を歌いだすのだから圧倒される。幾重にも重なる彼らの歌声は、人の体を突き動かし、心を満たす。
藤井美佳
字幕翻訳者
インド東北部のナガランドで、稲作を営む女性たちの労働歌をドキュメントした本作は、画面に映しだされた映像以上の空間性を音が付加しながら展開されていく。ぼくたちは映画を「観る」というが、「聴く」とはいわない。でもこの作品は、「聴く」映画だといっても過言ではないくらい音が作品の支柱となっている。
森永泰弘
サウンドデザイナー
声を出し、声を重ね、響きあう。そこには大地に深く根差した人々の生活がある。その生活からまたあらたな歌が生み出され、歌と歌は重なり、重厚なポリフォニーとなり、人と土地をつないでいく。私たちは終わりなき歌の循環のなかにいるのだ。さあ、ナガランドの歌の響きあいに身をゆだね、大地の祝福を全身で受けとめよう。
川瀬慈
映像人類学
インドの山村にキリスト教が導入した西洋的合唱音楽に対して、地元民の労働歌はスティーヴ・ライヒを思わせるような現代的な響きの産物だった。普通は西洋古典の和声法が人々の耳を圧倒するかと思いきや、伝統の響きがしぶとく抵抗し続ける。これは痛快な音楽の植民地戦争だ。
渋谷哲也
ドイツ映画研究/東京国際大学教授
今から3年半前の2015年3月、本作の監督らとインドのコルカタのDocedgeで一緒のワークショップに通っていた。企画の発表訓練を受けて、その後発表する。二人ともがちがちのドキュメンタリー畑の出身ではなく、今回が初めてのチャレンジだったと言っていた。プレゼンの練習中に時代背景や登場人物を丁寧に説明していたが、かなり人も多く複雑だった。本番では、稲作の過程で聞こえる労働歌そのものを主人公にするとシンプルに伝えた。数年を経て完成版を見て驚いた、想像をはるかに凌駕するミニマル音楽映画に仕上がっていたからだ。俯瞰の長回しのワンショットの棚田を耕すシーンに嫉妬を覚えた。
松林要樹
ドキュメンタリー映画監督
農作業をする人間の姿を見てなぜこれほどまでに心が動くのだろう。ペク村の人たちは機械を使わない。使うのは彼らの身体だけ、厳しい労働だ。身体を使うために、鼓舞するために、かれらは歌を歌う。私の声が彼女に響き、彼の声が私に響く。数あるフレーズの中で、田植えをする女たちが歌ったこの言葉が忘れられない。「私はいつ死んで朽ち果ててしまうの?」―“私”がいなくなっても、この 棚田には歌が残るだろう。響き続けるだろう。
望月優大
ライター/編集者
「言葉に節をつけて話してごらん、こんなふうに~♪。ね、歌になるだろう」。映画をみていてナガランドのロック歌手:Arenla姉の声を思い出す。田螺を拾う楽しさ、脱穀作業のはし痒さ、日常のどんな場面も言葉にすれば歌になる。首狩りを已め洗礼を受け、インド国民にされ「歌わなくなった」歌がある一方で、新しい歌を田畑に発芽させて育て上げてゆく。土地と名誉に生きるナガ族の強かさ、人間らしさが愛おしくなる映画だ。
村山和之
中央大学・和光大学講師
両親や祖父母の農作業の姿、汗の匂いや草の匂い、田んぼに入っている牛、結いで集まった近所の人たち、ワイワイガヤガヤ田植えが始まる。子どものころ田んぼの周りで遊んでいた、遊び相手はカエルやオタマジャクシ、走馬灯のように目の前に浮かんでくる。
「生きることは食べること」映画の中で「今日、手を抜けば後で後悔するだろう。」という言葉が非常に印象に残っている。そのことを肝に銘じて、中国山地の一軒家で今日も家族の食をつないでいる。
福原圧史
島根県吉賀町 柿木村有機農業研究会
順不同/敬称略